わけあって私生活が破綻して、いまは諸々を修復の最中にあり、目途が立つまで創作を休んでいる。精神的な余剰が潤沢でないときものを書くのにあまり向かない質だと自覚しているので、ある程度立ち直るまではこのまま大人しく黙っているつもりだ。いわゆる落ちているとき、なのかもしれない。情けない有様だが、それでもどこか悪い気がしないのは、先々月に愛しの児童文学雑誌の投稿欄へ自分の名前が載っているのを見つけたからだ。その小説はまだ生活が滅茶苦茶になる前、夏ごろに書いた。ある孫娘が祖母と連れ立って観音菩薩に祈りを捧げる朝を描いている。雑誌にはただ頁の端にごく小さな文字で載っただけで、べつに作品そのものやあらすじが掲載されたわけでもない。だがわたしは本件に「届くことって、あるんだ!」と心底驚かされた。ボトルレターを拾った衝撃というか、宇宙から暗号を受信した衝撃というか。わたしは自分で書いて、自分で発信するくせに、何らかの反応があることを予期しない。絶望的なまでに内向的で、交信の可能性を信じていないのである。だから人様から何らかの反応があったときは毎度、心底驚いてしまう。今年で同人活動を始めてもう十数年になるというのに。内向的な人間はある意味で幸福な分、孤独の痛みを知らない孤独と生涯付き合ってゆくしかない。小説を書く動機は変えられない。わたしは美しさのために書く。ここまで一度も迷わなかったわけではないけれど、ものを書き始めたときから今までずっと、美のほかのものに従って書けたためしがない。それでも、ときたま書かずにいられなかった美が誰かのもとへ届くことがある。交信は制御できない。どこかへ届いた今年は幸運だった。来年も書く。次に運に恵まれるかは、わからない。それでもわたしが「捨てたもんじゃない」と信じた美しい視界が、いずれかの時間やメディアを経由して思いもよらない誰かにまた届くよう、半ば期待を込めて。
